2024年04月25日
小さな小さな蕾のみ
趣味関係の人に、ウォーキングの会だけでなく、ハイキングの会にも誘われている。
わたしは、運動系はどうも気が重い。
映画やウォッチング、鑑賞など、インドア派。
ハイキングは、幼稚園の遠足みたいな平坦なものならまだ悪くないが、勧められている会は、急な坂や岩場など、足場が険しいコースが多いらしい。
ちなみに、今日、ウォーキングの会に参加したが、梅を愛でるコースだったのにもかかわらず、咲いておらず、小さな小さな蕾のみ。
あたり一帯ピンク色というコース名に惹かれて参加したのに。
まだ寒いから開花しないようだ。
結構、参加者は多かった。
平均年齢は、70代中半ぐらい?
男性のほうが俄然多い。
灰色一色。華やかさは全くない。
お目当ての梅はなかったし、自動車道路沿いの道を自動車に気をつけながら歩くことが多かったので、危なく快適ではなかった。
まさに、やることがないから強くプッシュされるままに参加したという、消極的参加。
アウトドアで運動になるから、まあいいか。
4月からポカっと暇になる。
で、あまりにも何もすることがなくなるため、気が進まないが、時間の無駄になりそうで、やめようと思った、趣味分野の行動を、ズルズル続行しそう。
消極的ひまつぶし。
理想とは異なる。
「無駄とわかっているのにトライするのは躊躇われるのですが、、、」と、趣味関係の知人に相談したら、「とかく人生には無駄が多いのが常です」という返答をもらった。
最低でなければ、よしとしよう。
しかたない。
理想を実現するだけの情熱が足りない。
そうやって少しずつ、やる気のないダラダラした時間を過ごす非活発生活にソフトランディングしていくのだろうか。
健康寿命があるうちは、限られた貴重な時間だというのに。
それはそうと、明日、京都の格式高いところに出向き一泊する。
適した服がない。
リラックスしたユルい手抜きの服装は、場の雰囲気にそぐわず、居心地が悪い思いをする可能性がある。
かと言って、ちゃんとした服装は、窮屈で疲れる。
またミニ・ブルーになっている。
わたしは、いつも、イベントや旅の前は気が重くなる。
憂鬱。
なぜなんだろう?
出不精。不活発症候群。慣性の法則。
これも下降ソフトランディングの一種か。
こんな日記、面白くもなんともない。
さえない、わたし。
わたしは、運動系はどうも気が重い。
映画やウォッチング、鑑賞など、インドア派。
ハイキングは、幼稚園の遠足みたいな平坦なものならまだ悪くないが、勧められている会は、急な坂や岩場など、足場が険しいコースが多いらしい。
ちなみに、今日、ウォーキングの会に参加したが、梅を愛でるコースだったのにもかかわらず、咲いておらず、小さな小さな蕾のみ。
あたり一帯ピンク色というコース名に惹かれて参加したのに。
まだ寒いから開花しないようだ。
結構、参加者は多かった。
平均年齢は、70代中半ぐらい?
男性のほうが俄然多い。
灰色一色。華やかさは全くない。
お目当ての梅はなかったし、自動車道路沿いの道を自動車に気をつけながら歩くことが多かったので、危なく快適ではなかった。
まさに、やることがないから強くプッシュされるままに参加したという、消極的参加。
アウトドアで運動になるから、まあいいか。
4月からポカっと暇になる。
で、あまりにも何もすることがなくなるため、気が進まないが、時間の無駄になりそうで、やめようと思った、趣味分野の行動を、ズルズル続行しそう。
消極的ひまつぶし。
理想とは異なる。
「無駄とわかっているのにトライするのは躊躇われるのですが、、、」と、趣味関係の知人に相談したら、「とかく人生には無駄が多いのが常です」という返答をもらった。
最低でなければ、よしとしよう。
しかたない。
理想を実現するだけの情熱が足りない。
そうやって少しずつ、やる気のないダラダラした時間を過ごす非活発生活にソフトランディングしていくのだろうか。
健康寿命があるうちは、限られた貴重な時間だというのに。
それはそうと、明日、京都の格式高いところに出向き一泊する。
適した服がない。
リラックスしたユルい手抜きの服装は、場の雰囲気にそぐわず、居心地が悪い思いをする可能性がある。
かと言って、ちゃんとした服装は、窮屈で疲れる。
またミニ・ブルーになっている。
わたしは、いつも、イベントや旅の前は気が重くなる。
憂鬱。
なぜなんだろう?
出不精。不活発症候群。慣性の法則。
これも下降ソフトランディングの一種か。
こんな日記、面白くもなんともない。
さえない、わたし。
Posted by nekohaso at
16:06
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2024年03月19日
らには子供がいなかった
年末年始、自分たちの家で過ごしたことは今まで一度もない。
夫の実家で、行く年、来る年。
姑もいなくなり、誰もいない家に、別に行く義務はないのだが、必ず、お正月は夫の実家で迎える。
子供たちも夫の実家に集まる外賣盒批發。
これは精神的なものだ。
こころの柱となる、今はなきイエ意識の名残か。
(ほとんどの方々には共感されない、理解されないと想像するが)
代々受け継いで行く気持ちがある。(子供たちは、ないかも知れないけれど)
子供たちも実家を離れ、核家族でそれぞれの別世帯の家で暮らしているが、年末年始は故郷。
子供の実家は、わたしの今の家になるが、わたしたちの実家は、親の実家。
ルーツである、これは動かない。
新しく枝葉は分かれるが、一本の幹の部分に集結する。
「故郷の家に来てね」と子供たちには言わないが、暗黙の了解になっている招牌設計。
自然に集まる。
わたしたちの代の後は、長男にだけ義務を押し付けることなく、子供たちが話し合って、どうにかすることだろう。
気持ちもさることながら、労力もお金も必要になる。
余裕があるかどうか。
わたしの母方実家は、長男、次男が次々他界し、彼らには子供がいなかったため、今は、三男とその息子が、管理している。
この世から消え去る家やモノ、制度もあるが、首の皮ひとつでどうにか繋がっている。
わたしの父方実家も、どうにか引き継いでくれる見通しが立った。
父方、祖母の実家も健在。
地元のみならず、東京や名古屋に就職しても、定年後、実家に戻ってくる子供さんたちもいる。
いわゆるUターン。
郷土愛なのか、地元愛なのか、家族愛なのか、愛着なのか、、、?
地方の考え方なんだろうか。
何人かそういう人を知っている。
都市部ではあまりそういう人とはお知り合いにならない月餅盒。
価値観は人によって違う。
ではあるものの、年老いた親を介護のため同居したり、通ったりしている年配の人もいる。
老老介護。
故郷に帰る、などという想いはないように想像する。
切羽詰まった状況。
毎日毎日を必死で生きる。
あるいは、楽しみながら生きる。
それぞれの人生。
夫の実家で、行く年、来る年。
姑もいなくなり、誰もいない家に、別に行く義務はないのだが、必ず、お正月は夫の実家で迎える。
子供たちも夫の実家に集まる外賣盒批發。
これは精神的なものだ。
こころの柱となる、今はなきイエ意識の名残か。
(ほとんどの方々には共感されない、理解されないと想像するが)
代々受け継いで行く気持ちがある。(子供たちは、ないかも知れないけれど)
子供たちも実家を離れ、核家族でそれぞれの別世帯の家で暮らしているが、年末年始は故郷。
子供の実家は、わたしの今の家になるが、わたしたちの実家は、親の実家。
ルーツである、これは動かない。
新しく枝葉は分かれるが、一本の幹の部分に集結する。
「故郷の家に来てね」と子供たちには言わないが、暗黙の了解になっている招牌設計。
自然に集まる。
わたしたちの代の後は、長男にだけ義務を押し付けることなく、子供たちが話し合って、どうにかすることだろう。
気持ちもさることながら、労力もお金も必要になる。
余裕があるかどうか。
わたしの母方実家は、長男、次男が次々他界し、彼らには子供がいなかったため、今は、三男とその息子が、管理している。
この世から消え去る家やモノ、制度もあるが、首の皮ひとつでどうにか繋がっている。
わたしの父方実家も、どうにか引き継いでくれる見通しが立った。
父方、祖母の実家も健在。
地元のみならず、東京や名古屋に就職しても、定年後、実家に戻ってくる子供さんたちもいる。
いわゆるUターン。
郷土愛なのか、地元愛なのか、家族愛なのか、愛着なのか、、、?
地方の考え方なんだろうか。
何人かそういう人を知っている。
都市部ではあまりそういう人とはお知り合いにならない月餅盒。
価値観は人によって違う。
ではあるものの、年老いた親を介護のため同居したり、通ったりしている年配の人もいる。
老老介護。
故郷に帰る、などという想いはないように想像する。
切羽詰まった状況。
毎日毎日を必死で生きる。
あるいは、楽しみながら生きる。
それぞれの人生。
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15:50
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2024年01月21日
になることもある
環境は子供を育成するには重要である。
人格形成をはじめ、いろんなことの礎となる。
特に品性は、環境から生み出されると感じる。
なぜなら、意図して備わるものではないからv 面。
ずーっと前に飛行機に乗った時。
ファーストクラスあたりから姿を現した、とてつもなく上品な一家がいた。
ちょっと昔の皇室御一家のような。
独特のオーラを放っていた。
ちなみに、品性は、意識した途端に消滅する。
知性は努力を積み重ねたりすると身につく。
が、品性は無理。
品性があるように振る舞う、真似事、演技は出来る。
演技が身につき、本当に品性があるかのようになることもある。
が、取り入れるキッカケ、ノウハウが演技からなら、微妙な品性である黑頭粉刺清除。
ではあるものの、この演技はクセモノである。
見ず知らずの人を騙すことは出来る。
だが、騙せるのはある程度であり、ニセモノは話をしたりすると見破られる。
話し方が上品であっても、話の内容がお粗末だと、これまた見破られる。
見破る能力があることこそ、逆に品性が備わっていないのかも知れない。
品性は理屈ではない。
ほぼ感性に近いとわたしは捉えている。
アッパークラスに属していても、卑しい人柄というものがある。
これは生まれつきのものだと考える。
逆に、底辺にいても、潰れないこころがあると思う。
人を下に見る気持ちこそが、賤しいと考える。
環境は人の基礎を作るが、その上に積まれる数々のもので、さらに個性は強まる去暗瘡印。
輝きを増すのなら結構だが、アクやクセが濃厚になることもある。
色んな個性がある。
人格形成をはじめ、いろんなことの礎となる。
特に品性は、環境から生み出されると感じる。
なぜなら、意図して備わるものではないからv 面。
ずーっと前に飛行機に乗った時。
ファーストクラスあたりから姿を現した、とてつもなく上品な一家がいた。
ちょっと昔の皇室御一家のような。
独特のオーラを放っていた。
ちなみに、品性は、意識した途端に消滅する。
知性は努力を積み重ねたりすると身につく。
が、品性は無理。
品性があるように振る舞う、真似事、演技は出来る。
演技が身につき、本当に品性があるかのようになることもある。
が、取り入れるキッカケ、ノウハウが演技からなら、微妙な品性である黑頭粉刺清除。
ではあるものの、この演技はクセモノである。
見ず知らずの人を騙すことは出来る。
だが、騙せるのはある程度であり、ニセモノは話をしたりすると見破られる。
話し方が上品であっても、話の内容がお粗末だと、これまた見破られる。
見破る能力があることこそ、逆に品性が備わっていないのかも知れない。
品性は理屈ではない。
ほぼ感性に近いとわたしは捉えている。
アッパークラスに属していても、卑しい人柄というものがある。
これは生まれつきのものだと考える。
逆に、底辺にいても、潰れないこころがあると思う。
人を下に見る気持ちこそが、賤しいと考える。
環境は人の基礎を作るが、その上に積まれる数々のもので、さらに個性は強まる去暗瘡印。
輝きを増すのなら結構だが、アクやクセが濃厚になることもある。
色んな個性がある。
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09:58
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2024年01月21日
あいまいなことも言って
学歴と学力は違う。
博士号を取得しているある人が、若き日のわたしに言った。
「博士号は、僕にとっては足の裏に引っ付いているご飯粒のようなものです箍牙。
取らないと気になるだけです」
なるほど、言い得て妙。
博士号を取っていない、勉強嫌いの実践型タイプは、学者ではない?
学者さんならやはり何か取らないと、、、と野次馬のわたしは思うのだが、学者さんではないのなら、別に必ずしも必要ない、、、と、「屋外のマスク着用は必ずしも必要ではない(岸田発言)」のような、あいまいなことも言ってみる。
ちなみに、わたしのピーク時の学力は中学3年生の時の、中学3年ぐらいの学力(そのまま)。
(他の生徒と比べて学年何位とかではなく、自分の今までの人生のなかで)
中学校の国語の授業は、新聞の「天声人語」を毎日、教材にしていた。
先生が課題にあげた漢字を同級生がさらさら書いているのを、カッコいい〜と、うっとり見ていた電動牙刷比較。
さて、今のわたしの学力は、小学生の孫にぐんぐん追い越されている感がある。
「日本語で遊ぼう」シリーズの「ことわざカルタ」などは、完敗で、いまや5歳の3番目孫にも負けかけている。
「ばあちゃん、起きてる?」と言われる。
「あ、ごめん、寝てたわ」なら、サンドイッチマンのネタになる。
トランプのゲームで、「大貧民」という種目がある。
これは若い頃、よくやった。
最近、うちに数家族が集まると、手が空いているメンバーは、このゲームをする。
小学生孫たちは、メキメキ腕を上げている。
ゲームのルールを覚えたての頃は、やり方がよくわかっていなかったが、今や、ガンガン行く。
これがまた、性格がよく出る。
良いカードを大事に残して最後まで使い切れずに負けたり、ここぞという時に勝負に出たり。
カードの使い方が、上孫と次女が似ている。
最後まで持っておくタイプ。
また熟練すると、違う傾向の使い方をするようになることだろう。
あ、わたしは、あっさり負ける派。
最初から配られたカードが悪過ぎる、、、と、自己擁護。
知恵と熟考と機転と負けん気がない代わり、運だけで行っているのは、やはり性格が現れているように思う。
今や、メンバー補充要員的な役割で、頭を使わず場当たり。
アタマが緩くなるはずだ。
だが、勝つ時もあるので、面白いものだ。
学力と社会力も違うし、商才も違う。
知識は助けになることがある。
だが、邪魔になることはないにしても、先入観や決めつけは良くない滅蚤。
柔軟性。
しなやかさと、したたかさ。
両方あれば良いのだが、これがまた両立は難しい。
博士号を取得しているある人が、若き日のわたしに言った。
「博士号は、僕にとっては足の裏に引っ付いているご飯粒のようなものです箍牙。
取らないと気になるだけです」
なるほど、言い得て妙。
博士号を取っていない、勉強嫌いの実践型タイプは、学者ではない?
学者さんならやはり何か取らないと、、、と野次馬のわたしは思うのだが、学者さんではないのなら、別に必ずしも必要ない、、、と、「屋外のマスク着用は必ずしも必要ではない(岸田発言)」のような、あいまいなことも言ってみる。
ちなみに、わたしのピーク時の学力は中学3年生の時の、中学3年ぐらいの学力(そのまま)。
(他の生徒と比べて学年何位とかではなく、自分の今までの人生のなかで)
中学校の国語の授業は、新聞の「天声人語」を毎日、教材にしていた。
先生が課題にあげた漢字を同級生がさらさら書いているのを、カッコいい〜と、うっとり見ていた電動牙刷比較。
さて、今のわたしの学力は、小学生の孫にぐんぐん追い越されている感がある。
「日本語で遊ぼう」シリーズの「ことわざカルタ」などは、完敗で、いまや5歳の3番目孫にも負けかけている。
「ばあちゃん、起きてる?」と言われる。
「あ、ごめん、寝てたわ」なら、サンドイッチマンのネタになる。
トランプのゲームで、「大貧民」という種目がある。
これは若い頃、よくやった。
最近、うちに数家族が集まると、手が空いているメンバーは、このゲームをする。
小学生孫たちは、メキメキ腕を上げている。
ゲームのルールを覚えたての頃は、やり方がよくわかっていなかったが、今や、ガンガン行く。
これがまた、性格がよく出る。
良いカードを大事に残して最後まで使い切れずに負けたり、ここぞという時に勝負に出たり。
カードの使い方が、上孫と次女が似ている。
最後まで持っておくタイプ。
また熟練すると、違う傾向の使い方をするようになることだろう。
あ、わたしは、あっさり負ける派。
最初から配られたカードが悪過ぎる、、、と、自己擁護。
知恵と熟考と機転と負けん気がない代わり、運だけで行っているのは、やはり性格が現れているように思う。
今や、メンバー補充要員的な役割で、頭を使わず場当たり。
アタマが緩くなるはずだ。
だが、勝つ時もあるので、面白いものだ。
学力と社会力も違うし、商才も違う。
知識は助けになることがある。
だが、邪魔になることはないにしても、先入観や決めつけは良くない滅蚤。
柔軟性。
しなやかさと、したたかさ。
両方あれば良いのだが、これがまた両立は難しい。
Posted by nekohaso at
09:57
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